あれは一ヶ月にわたる長期の海外出張から帰宅した夜のことでした。玄関を開けた瞬間に、鼻を突くような強烈な下水の臭いが家中に充満しており、私は一瞬で立ちすくんでしまいました。何かが腐っているのか、あるいはどこかで動物が死んでいるのではないかという不吉な予感が頭をよぎり、恐る恐る家の中を確認していくと、その発生源はトイレであることがわかりました。ドアを開けると、そこには信じられない光景が広がっていたのです。便器の中に常にあるはずの水が、一滴も残らず消え去り、排水口が真っ暗な穴となってむき出しになっていました。便器の中の水は、封水と呼ばれて下水道からの悪臭や害虫を遮断する役割を持っていますが、その水がなくなったことで、家の中と下水道が直接繋がってしまったのです。私はパニックになり、慌てて洗浄レバーを回しましたが、タンクにたまっていた水が流れるだけで、しばらくすると水位がまたじわじわと下がっていきます。結局、その日はあまりの臭いに耐えられず、ホテルへ避難することになりました。翌朝、すぐに水道業者を呼んで点検してもらったところ、原因は単純な故障ではなく、複数の要因が重なった結果だと知らされました。一つは記録的な猛暑による水の自然蒸発、そしてもう一つは、便器の奥に引っかかっていたわずかな糸くずが、毛細管現象を引き起こして水を少しずつ排水路へと吸い出していたというのです。人がいれば流すたびに水が補充されますが、長期間不在にしたことで、この微細な漏出が積み重なり、ついに封水が破綻してしまったのでした。業者は「最近は空き家や長期不在でこのようなトラブルが増えていますよ」と語っていました。それ以来、私は数日以上家を空ける際には、必ず便器に蒸発防止用の特殊なオイルを垂らしたり、ラップで蓋をしたりすることを欠かさないようにしています。快適な日常が、たったコップ数杯分の水によって守られていたことを、私はあの一夜の強烈な異臭とともに身を以て体験したのでした。もし同じように水位が低いと感じることがあれば、それは目に見えない場所での異変が始まっているサインかもしれません。
長期間家を空けた際に便器の水が消えていた恐怖の体験談